危機下の映画業界へ

映画で振り返るパンデミック年代記

  • 文: Nicolas Rapold
  • アートワーク: Sierra Datri

「こんなときに病気になるのは、ひどく運が悪いものだ。なにしろ不調を訴えようものなら、すぐさま疫病だと決めつけられてしまう」

パンデミックの魔の手を逃れるすべはなかったし、だから現実逃避のしようもなかったということかもしれない。まだ春浅い頃、自宅に籠っていた僕は、ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)による17世紀ロンドンの腺ペストの記録を手に取った。毎日、まるで処方薬を服用するように、デフォーの巧みな語りで綴られる、事実に基づく年代記『ペストの記憶』を少しずつ読み進めた。作家が創造した控えめなペルソナである、悪疫の惨禍を生き延びた小商人「H.F.」に、僕は奇妙な安心感を覚えた。ここには、現代をなぞるようなルポルタージュが、死者数の週報が、世情の記録が、エピソードが、国の歴史が、回顧と省察があった。パンデミックの現代を生きる上での課題の多くは、何世紀も前の経験の繰り返しだ。人間性しかり、そして意外なことに、科学の躍進と凋落もしかり。そうは言っても、閉鎖された家屋の中で、うめき声を上げながら死にゆく者たちについて読むことは、あまり気分を明るくしてはくれるものではない。そこで僕はスクリーンに舞い戻った。

「すべての芝居、熊いじめ、賭博、歌謡、剣術試合、そのほか人混みを招くような催し物は一切これを禁じ、背いた者たちには、その区の区長が厳重な処罰を与えるものとする」

世界が健康だった頃、僕は自由な時間のほとんどを、独立系の映画館に喜んで捧げていた。映画雑誌を編集し、映画について書くということは、上映室や映画祭で膨大な時間を過ごすことを意味する。街じゅうの映画館が閉鎖されてしまうと、僕が目を向けたのは、いつか観ようと積み上げてきた、あるいはいつの間にか積みあがった何年分ものディスクやテープの山だった。それらは大量に流れ続けるストリーミングの映画よりも僕の心を惹きつけた。それぞれ形をもつそれらの映画は、果てしなく伸び広がっていくパンデミック下の時間の中で、句読点の役割を果たす。恐怖と無力感に満ちた世界の只中では、何かに意識を集中できること自体に価値がある。たとえ必ずしもストーリーがなかったとしても、どんな映画にも少なくとも終着点はある。

その点、2020年3月という、どこまでも落ちていく自由落下のさなかのある1日に『キューティ ブロンド』と『Stuff and Dough』が果たした役目はまったく同じだった。陰鬱な未知の世界から意識を逸らせてくれたという意味で、この2作品は同等だ。僕はリース・ウィザースプーン(Reese Witherspoon)が演じる負け犬かつ社交クラブの花形という馬鹿げたヒロインが、みごと相手に一泡吹かせるまでを応援しながら見つめ、クリスティ・プイウ(Cristi Puiu)監督の若い密輸犯3人組とトラックに乗り込んだ。彼らの運命は3人の会話を追いかける車内カメラに結びついているらしかった。とはいえ、2001年のスタジオ製作映画とカンヌ上映作品であるこのペアについての極上の真実は、一本は96分で、もう一本は90分だということだ。

「それが姿を現し始めた」

デフォーは1665年のペスト発生を「訪れ」と書いている。この言葉には、どこか超自然を連想させる響きがある。コロナの日々が始まってすぐの頃、僕の目に映る外界はある種の瘴気に覆われているかのようだった。時折広がる目に染みるほどの青空と、しんと動かないニューヨークの表の顔は、街中の閉ざされたドアの向こうで呻吟する者たちとは切り離され、不条理なだけでなく作り物のように見えた。

このかすかな幻覚のような感じはどこまでもつきまとい、安全なアパートの一室に籠もって僕が観ているものすべてに、その異様に鋭敏な知覚が及ぶらしかった。時折、それは些細なきっかけで起きた。早春に開催される、サウス バイ サウス ウエスト(SXSW)の映画祭が中止された後、僕は出品作のひとつ、エイミー・サイメッツ(Amy Seimetz)監督の感染をテーマにしたスリラー『She Dies Tomorrow』を自宅で鑑賞した。映画のプロットはエレガントなほどシンプルで、頭にこびりついて離れない。ある女性が翌日に自分は死ぬと信じていて、その確信が周囲の人々に広がっていく。その症状が純粋に心理的なものか―、つまり命に関わるものではないのかはわからない。

この宙ぶらりんの状態が、3月のカウントダウンの恐怖や混乱に呼応した。何かが起こるのを予期しながら、医学的症状を出すことなく14日間のロックダウンが過ぎていくのを待つ、あの感じ。頭のどこかで、パンデミックよりもずっと以前に考えられたサイメッツの映画の独自性は、これで損なわれただろうかと思案しつつ、別のどこか、震えながら甲高く不安を訴える心の芯の部分では、その組み合わせの妙を感じていた。誰もが大量死の影に怯え、あるいは不安と後ろめたさを抱えて安全地帯に隠れている今、ホラー映画は感情につながる方法として悪くなさそうに思えた。

じつは都市閉鎖が始まったとき、『エルム街の悪夢』がテレビの横にすでに置かれていた。嘘のような話だが、それはそこにある。いや、あった。意識と無意識、現実と悪夢の境目がぼやけるこの映画の世界が、真実味と現実感を帯びた。世界はひっくり返ろうとしていた。感染した人は、コロナについて、誰かが胸の上に立って、ぼろぼろになった身体を乗っ取ろうとしているような気がしたと語った。ウェス・クレイヴン(Wes Craven)監督は、同じ郊外のセットを舞台に、覚醒と夢を途切れなく行き来して『悪夢』を演出する。セットは家々に、街路に、ティーンエイジャーの寝室に、表の顔を与える。彼のキャラクターたちは、ただひたすらその「訪れ」を待ち続けている。

「何より驚いたのは、日頃は人々であれほど賑わっていた通りが今や閑散として、人影もまばらになってしまったことだ」

僕はまったく外出しなかったわけではない。マスクをして、最小限どうしても必要な時には表に出た。家に帰ると、エリック・ロメール(Éric Rohmer)の『友達の恋人』を観ながら、フランスの20代の若者たちが、相手が自分に気があるだのないだの能天気な恋愛ゲームにいそしむ、ぺらぺらでそよ風にはためくようなプロットに呆れた。男女の機微はまるで人類学のテーマのようだし、公園やカフェやパーティで繰り広げられるくだらない恋の泣き笑いは贅沢だと思った。そしてすべては、主役のカップルふた組がまとう、カラーコーディネートされた四角いボックス型の80年代ファッションに集約される。

その時、気が付いた。街を好きに歩き回る自由がある映画は何であれ、僕に涙を浮かべさせる。それは『偉大なるマッギンティ』も同じだった。ただし、このプレストン・スタージェス(Preston Sturges)のどこかやけっぱちのドタバタ劇はいつだって元気をくれる。票の水増しで民主党の市長に上りつめるチンピラのマッギンティを見ながら、そういえば、誰かが不正で高位に出世するのを笑って見ていられたこともあったと思い出した。憤懣やるかたない思いをするのではなく。

その日、もう1本観たのが『アリスの恋』だ。スコセッシ(Scorsese)監督と主演エレン・バースティン(Ellen Burstyn)による、逞しい不屈の精神を描く作品だが、全編を通じて女同士の連帯がもたらすひと時の休息がアリスの人生を熾火のように照らしていた。再び息子を連れて車に乗り込み、旅に出る彼女は、自分を取り巻く状況の一部からは逃れられても、すべてから逃れられはしない。アリスの物語を僕のお粗末な悪疫の記録ノートに書き込んで、小さくまとめてしまうことすら無念だが、ともあれ考えごとから逃げ出せるスピードにかけては、この作品にかなう映画は現時点でほとんどない。

「疫病が止んでも、いがみ合い、ののしり合い、互いを誹謗中傷する精神がそのまま消えずに残ったことが何よりも我々の不幸であった。疫病以前は、この精神こそがこの国の平和を乱す大きな元凶だった」

時間が経つにつれ、全体がつかめてきた。いや本当は、不安やパニックが凝り固まり、無感覚になったのだ。3月は、コロナ後の世界というか、コロナが現在進行中の世界をあれこれと考えることで頭がいっぱいだったが、それは嵐のような4月に比べればおとなしいものだった。多くの点で、今や未来は、現代社会の病理や分断が悪化し強調されていく以外にないように見えた。歴史がそのことを教えてくれる。1988年の長編作品『Lightning Over Braddock』で、トニー・ブーバ(Tony Buba)が描き出すレーガン(Reagan)大統領時代のペンシルベニア州の鉄鋼地帯を見つめながら、僕は先の世代の絶望的な経済的ネグレクトと遺棄、それがもたらした風景の物語に耳を澄ませた。労働者の首を絞めるカネの力はひたすら強まっていく。それはひとつの産業や波乱の時代に特有の苦悩ではなく、社会を覆う病だ。

『Sherman’s March』と『Roger & Me』の中間に位置するこの作品におけるブーバの語りは、自嘲と自己神話化のあいだを行き来し、観る者にいら立ちとむなしさを湧き起こさせる。告白すると、この映画を見た翌日は大っぴらに爆弾をぶちかますスパイク・リー(Spike Lee)の『Bamboozled』で憂を晴らした。リー監督の映画を観るといつもそうなのだが、 僕も含め、当時この作品を、この映画がどれほど重大なことを成し遂げたか見えていなかったことに腹が立った。その怒りは『Be Natural』を観るあいだもくすぶっていた。この忙しなく混沌とした、しかし濃厚なドキュメンタリーは、映画草創期のフランス人映画監督でありショービズの世界で精力的に活躍しながらも、映画史から葬り去られたアリス・ギイ・ブランシェ(Alice Guy-Blaché)を再発見する作品だ。

「疫病に感染し、間違いなく病毒に汚染され、血の中に持ちながら、その徴候が表に出ない者もいた…こうした者たちをこそ、健康な人々は恐れるべきだったが、とはいえ、外からは見分けようがないのだった」

このへんにしておこう。だが、僕は観ることをやめたわけではない。僕たちは誰もが観続けていた。今でいう無症状キャリアについての、このデフォーの描写が脳裏に浮かぶ。それは数世紀を越えて不気味にこだまする、書き連ねられた鋭い所見のひとつだ。時代に先駆けた文字通りの医学的真実というだけでなく、この言葉は互いへの思いやりを失わないようにという、警告のようにも聞こえてくる。

「彼らはもう互いに距離をとろうともせず、屋内に閉じこもるのもやめて、あたりかまわず出歩くようになり、言葉を交わし始めた」

上の文章は、警察によるジョージ・フロイド(George Floyd)の殺害によって、社会に大きく広がり、公正を求める粘り強いデモに火が付く前に書いたものだ。ストリートの連帯はこの国にとって稀有な希望の源泉となったが、非常に腹立たしいことに、永続的な効果が表れ出すには時間がかかる可能性はある。それを横目に、映画の国ハリウッドのスタジオや劇場チェーンは、クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督の『TENETテネット』をはじめ、大作の公開を華々しく再開する計画を立てている。準備ができていようといまいと、それらはやってこようとしているのだ。

『Be Natural』を観て、映画界における最重要人物が危うく消し去られようとした事実に、僕は、歴史に対して常に用心深く目を向け続ける必要があると考えるようになった。そして歴史とは、現在をも意味するものでなければならない。巣ごもり中の映画鑑賞のあいだに、僕の心を最も動かしたものがひとつあるとすれば、それはパンデミックによる大変動と災禍が単純に自分たちに襲いかかることへの恐怖だった。すべては移り変わる。だが、何ひとつ変わるものはない。

(注)引用文は、『ペスト』中公文庫(平井正穂 訳)を一部改訳して参照しています

Nicolas Rapoldはニューヨーク出身の編集者、ライターである。『The New York Times』紙に定期的に寄稿するほか、『Artforum』、『Reverse Shot』などで記事を執筆。2016年以降、雑誌『Film Comment』の編集長を務め、ポッドキャストを運営する。連絡先はnicolas.rapold[at]gmail.com

  • 文: Nicolas Rapold
  • アートワーク: Sierra Datri
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: August 3, 2020