体験レポート:
Wales Bonner Havana ショート スリーブ&Oraa カーディガン
アレクシス・オケオウォはメンズウェアで距離をとる
- 文: Alexis Okeowo
- アートワーク: Megan Tatem

人間のもっとも基本的な本能に反して、現在、世界中の人々はお互いの間に距離を置き、不要な接触や愛情の表現を避けることを余儀なくされている。だがこれは、メンズウェアを着る人やメンズウェアを作る人にとっては、馴染みのある立ち位置かもしれない。例えば、Wales Bonner。イギリス人デザイナーのグレース・ウェールズ・ボナー(Grace Wales Bonner)が2014年に立ち上げたこのブランドは当初、超然として、かつ挑発的なメンズウェアだけでスタートした。そのプリント柄は誘うようでありながら、フォルムには他者を寄せつけないところがあった。メンズウェアのあるべき姿とは、元来、社会的距離をとるための手段だった。
そうしたメンズウェアの作用を、私も利用した経験がある。はるか昔のような気もするし、つい先日のような気もするが、去年の夏以来、私は気が向いたときはいつでも、気が向いたやり方で、男みたいな恰好をしていた。Tシャツもセーターも、ボタンダウンもパンツも、ゆとりがあって、しかも興味をそそらないところが男物のいいところだ。私をとり囲むスペースを拡大してくれる上に、他者からの影響は弱めてくれる。男物を着るのはスリルでもあったし、同じくらい着心地もよかった。女性であることを演じる必要から解放され、女らしさから距離をとる感覚だった。男物を着たときは、私にはちょっかいを出してくるな、と警告している気がしたし、実際、無関係な人に煩わされることもなかった。そんな体験がきっかけで、私の視点は変わった。ここ数シーズンで男性のファッションは変容を遂げつつあり、先端を走るデザイナーたちは男性に期待される概念を変革する一方で、私たちがなりたいと思う男性になった気分を体験させてくれる。
私が暮らしているニューヨークの街では3月中旬から自主隔離が求められたが、それに先立つ数週間、私は大抵、Wales Bonnerの2020年春夏コレクションのカーディガンで外出した。丈はヒップより数センチ長く、袖は指先を隠して余りあるほど長く、スリムなカットで、重量感のあるコットンのリブ編みだ。地色はブラックだが、前身頃にオレンジ、ホワイト、セージ グリーンで幾何学的なデザインが刺繍されている。私は袖を折り返し、襟のあるシャツの上に着て、ボタンを留めないか、いくつかを留めるだけで、ディナーにもセラピーにもインタビューにも出かけた。着心地が良くて印象的なこのカーディガンを着ると、本当は本と同じくらい服が好きなくせに、誰に対してもそのことを認めようとしない男になった気がした。

Alexis 着用アイテム:ブラウス(Wales Bonner)
つまり、去年の夏以来、私はジェンダーにそぐわない服を着る意味を考えていたのだ。日、時刻、気分次第で移り変わる私の女性的な衝動と男性的な衝動に、どうすれば正直でいられるか。私は、これまでの人生の大半を、素晴らしくスタイリッシュな女性として過ごしてきた。だが実はその間ずっと、男友達を羨んでいたのだ。ペーパーバックだって入るほど大きいポケットのあるジャケット、かっちりしたスーツ、ゆったりしたスウェットシャツにフーディ。男たちの服には実用性とスタイルの両方があって、快適な着心地が最優先だ。何を着るにせよ、男性にとっていちばん重要なのはやるべきことをやれること。私も、素敵な服を着てやるべきことをやりたかった。自主隔離が始まる前に着るつもりでいたWales Bonnerのアイテムが、もうひとつある。むしろブラウスに近いメンズのシャツで、レモン イエローの地に大きな赤い花が散っている。ボタンを留めず、大きな襟を広げた着方をしたら、さぞかしのびのびと魅力的だろう。友達に会いにナイトクラブへ向かう、本当は心の優しいマイアミのバッド ボーイになった気分だ。そのシャツを足首までのパンツか裾のひらひらしたミニスカートと合わせる予定だったが、生憎、そんな恰好をするにはまだ寒すぎた。
このカーディガンもブラウスも、私が知っていた男たちを思い出させる。若かりし頃、カレッジへ行くためにアメリカへ来たばかりの父は、ベルボトムかフレアなパンツ、派手で賑やかなプリントのシャツのボタンを半分だけ留めた姿で写真におさまっている。ナイジェリアにいる叔父たちは、いかにも体に馴染んだ感じのジャンパーとスラックスに、ゴム草履かスリッパだ。大半の女性がそうであるように、私と「男性の視線」の関係も複雑だ。10代や20代は、何をどう着るかを決めるのに、好きなタイプの男性の視覚的な好みに左右されることが多かった。ところがメンズウェアを着始めると、別の種類の「男性の視線」に気付くようになったのだ。それは、男たちが私に期待するものではなく、彼ら自身が真似たいものを見る熱っぽい視線だ。それこそ私が望む視線だった。ある晩友達と飲みに出かけると、親友のパートナーが私の着ていたネイビーのキルト ベストを見て、どこで買ったのかと尋ね、同じようなのを自分も欲しいと言う。まさに、今年になって最高の誉め言葉だった。

画像のアイテム:カーディガン(Wales Bonner)

画像のアイテム:ブラウス(Wales Bonner)
Wales Bonnerの学生っぽいカーディガンを着て通りを歩くと、チラチラと敬服の視線に出会う。欲望と賛美は大きく違っていた。私にスタイル哲学があるとすれば、それは、もっとも古典的で実用的なメンズウェアを上品な女性らしいアクセントで着こなすことだ。Wales Bonnerのカーディガンは、素朴と繊細の両方を感じさせる。アンドレ・アシマン映画『君の名前で僕を呼んで』の純情な恋人が、報われない愛の相手を想いながら、傷心のうちにイタリアの片田舎をあてどなく歩くときに羽織ればぴったりな感じ。花柄のシャツのほうは、ついに、Zoomのブックトークで着るチャンスがやってきた。とても軽くて、ゆったりしている。実は、「ステイ ホーム」になってから私は『スカーフェイス』を初めて観たのだが、コンピュータの画面に反射した私は、スリップ ドレス姿のミシェル・ファイファー(Michelle Pfeiffer)ではなく、ダンス フロアで、ぎこちなく、だがチャーミングに彼女を誘おうとするアル・パチーノ(Al Pacino)になった気がした。
なぜ、ウィメンズウェアはメンズウェアの実用性に程遠いのか? 理由はよく知られている。ヴィクトリア&アルバート博物館の解説によると、ヨーロッパのデザイナーたちは、紳士用のコートやウェストコートに目立たない方法でポケットを縫い付ける手法を考案したが、ドレスにポケットを付けるとどうしてもシルエットが乱れると言って譲らなかった。だから、17世紀の白人女性はベルトからポケットをぶら下げ、その上に何層にも生地を重ねたスカートを履き、スカートに開けたスリットからポケットの中身を出し入れしていた。ヨーロッパ社会では、女性が見えない場所に所持品を隠し持つのを良しとしなったという説もある。事実、地位のある女性は現金を持ち歩くものではないと白人男性は考えていた。そういうわけで、私たち女性は携帯や財布すら満足に入る場所がない服を着て、1日の活動に必要なものはバッグに入れて持ち運ぶことを余儀なくされた。

まだあちこちへ出かけなくてはならない毎日だった頃、私は生活からバッグをほぼ厄介払いしていた。最初は、何かが欠けているような、持ち物をどこかへ忘れてきたような気持ちがつきまとって変な具合だったけど。Wales Bonnerがデザインする服にはスポーティなエネルギーを放散するものが多くて、労せずして活動的な印象を与えてくれる。カーディガンを着ただけで、素早く座席を立って地下鉄を飛び下り、すべての重荷から解放され、歩道の人ごみをかき分けて進む気になるのだった。
現在のメンズウェア デザイナーはふたつに分類できる。一方は、男らしさと女らしさの既定観念を押し広げ、境界の両側で両性的な表現と奇抜で新奇な規範を探る。もう一方は、デザイン、色使い、プリント、構成によって、メンズウェアの定番に磨きをかける。羽毛をあしらったブラウス、シアなチュニック ドレス、エミリー・アダムス・ボーディ(Emily Adams Bode)がデザインするBodeの軽やかなパッチワークなどは最初のグループ。エディ・スリマン(Hedi Slimane)と彼が作り出すファンキーでスリムなスイーツは2番目のグループ。どっちもいいと思う。男らしく見えること、男らしく感じることが著しく変異した時代に、男らしく服を着る意味を拡大したからだ。ジェンダーによる二分化や、より広くジェンダーそのものが破綻したにもかかわらず、私たちの多くはまだ男性的な表現のかたちにセンチメンタルな執着がある。同時に、そんなものを吹き飛ばせるようになりたいと願ってもいる。
Alexis Okeowoは、『ザ ニューヨーカー』のスタッフ ライター
- 文: Alexis Okeowo
- アートワーク: Megan Tatem
- 写真: Nientara Anderson
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: June 16, 2020