アマチュアの達人

独学者、部外者、初心者、親族:思いがけない道のりを経由し、未来的ビジョンでデザイン帝国へ登りつめた偉大なる素人たち

  • 文: Julia Cooper

誰もがクリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)のブレスレット スリーブを享受しつつ、学びのチャンスを与えられていたわけではない。

この真実を、ファッション界はあまねく認識していない。確かに、サヴィル ロウで何年もの見習い期間を過ごす者もいる。セントラル セント マーチンズの卒業証書を手にする者もいる。だがファッション界には、自らの直感あるいは独立独歩のパンク精神に導かれ、不足した部分を埋め合わせていった達人的素人が溢れている。

ファッションは常に時代の落とし子だ。私たちの集団的な気まぐれ、不安、美意識が織りなすファブリックだ。達人的素人は、伝統のためではなく、時代精神のためにデザインする。

エディ・スリマン(Hedi Slimane)の言葉を借りるなら、「アマチュアが何かをやるとすれば、それは紛れもない率直な欲求があるからだと推測するのが普通だ。つまり、喜びと刺激の産物である。どこか享楽的であり、ほとんどの場合、努力とは無縁だ」

過去と現在を通じて、正式の教育を受けることなく最高のデザイナーになった人々がいる。アメリカーナを象徴する王者ラルフ・ローレン(Ralph Lauren)から、ゴーシャ・ラブチンスキー(Gosha Rubchinsky)、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)に至るまで、デザイナーとは何か、どんな人物をデザイナーと呼ぶのかを改めて私たちに自問させる独学デザイナーの一団に、ファッション界は多くを負っている。彼らに共通するのは、持って生まれた才能か。伝統を歯牙にも掛けないアティチュードか。並外れたセンスか。

ブロンクス出身のローレンは裕福ではなかった。ドナテラ・ヴェルサーチ(Donatella Versace)は、兄のジャンニが築いた高級ファッションの世界へ飛び込む前、言語学を専攻していた。アブローは建築学修士の学位を持っている。Diorの栄光を復活させ、現在は、現代社会との繋がりを喪失したCalvin Kleinをマウスツーマウスの人工呼吸で蘇生させようとしている愛すべきベルギー人デザイナー、ラフ・シモンズ(Raf Simons)は、スケッチを描かない。

これらのデザイナーたちは、疲弊したシルエットとファッションの純血に関する窮屈な考えを刷新し、あるいはクチュールに対して払うのと同じ尊敬をストリートウェアに向けることによって、アウトサイダーの立場を有利に活かした。おそらく、初心者や部外者や素人は、クリストバルさえ指摘できなかった何かを、私たちに教えられるのかもしれない。

腕利きのセールスマン、ラルフ・ローレン

ラルフ・ローレンは、夜は経営を勉強し、昼は店舗で働くブロンクス出身のユダヤ青年だったが、生まれつきのファッション センスを備えていた。1967年には、上司を説得し、エンパイア ステート ビルのショールームで、自分がデザインしたネクタイを売ることに成功していた。ローレンが早い時期から表現を目指したのは、労働階級出身の経歴では身をもって知りえなかった貴族的アティチュードだ。そこで、ハーバード、プリンストン、エールといった名門大学の卒業記念アルバムに徹底的に目を通して、アイビー リーグのスタイルを吸収した。次のステップは、高級百貨店ブルーミングデールズに掛け合い、店舗の一角でネクタイとシャツの販売を認めさせることだった。その後、自分の販売区画をカントリー クラブ風に仕立てた。包括的な品揃えでライフスタイルを提案するブランドとそのコンセプトショップは、このようにして生まれたのである。

「変人」パコ・ラバンヌ

ココ・シャネル(Coco Chanel)は、パコ・ラバンヌ(Paco Rabanne) は「ファッション デザイナー」ではなく「金物屋」だとして、まったく相手にしなかったが、それは彼女が不安だったからだ。ラバンヌは現代の神秘主義者なのだ。7万年前に最初の人生を生きたと信じているし、大地と交わるために地面に掘った穴と愛の営みを行ったと『ニューヨーク・タイムズ』に語ったこともある。言うまでもなく、ラバンヌの宇宙時代的デザインとシャネルのアトリエは、何光年もかけ離れていた。ラバンヌの母は1920年代にBalenciagaの仕事をしていたが、ラバンヌ自身は建築を学んだ。そして、慣習を意に介さず工業デザインを愛するシュールレアリストとして、戦後の工業材料を使い、プラスチックや耐久性のある紙から新たな種類のクチュールを作り出した。未来に視点を据えた独学のデザイナーとして、アンドレ・クレージュ(André Courrèges)やピエール・カルダン(Pierre Cardin)らと共に、現代のクチュールを誕生させた。女性たちが家庭にいながらにして自分たちのクチュールを作れるように、ディスク、リング、小型ペンチがセットになったDIYキットを販売したことさえある。

逆風の中を歩んだカニエ・ウエスト

YEEZYのモノクロなスタイルが好きか嫌いか、それはこの際関係がない。ファッションに魅入られたウェスト氏は、2009年の冬、毛皮の扱いで有名なローマのブランドFendiの見習いになった。Célineのクリエイティブ ディレクターを務めたフィービー・ファイロ(Phoebe Philo)、そしてもちろん愛してやまない「Versace、Versace、Versace」に対して、カリスマ的な思い入れを示す。だが、デザイナーとしてのウェストは、常に真面目に受け止められたわけではない。「デザイナーの真似事をするセレブ」として冷笑的に軽んじられ、大半のファッション メディアはYEEZYの内容を無視するか、おざなりに取り上げるかのどちらかだった。ファッション業界のスケジュールに従わないのも不利かもしれない。その代わり、ウェストには、1日のうちにYEEZYシーズン6の9点を着てみせるキムがついている。今やカニエは世界に君臨し、私たちはカニエの世界に生きている。

ミューズから転身したドナテラ・ヴェルサーチ

母はDiorやChanelのスタイルを好んだ洋裁師。兄は世界的デザイナー。そんなデザイナー一家で成長しながらも、ドナテラはフィレンツェ大学で言語学を学んでいた。だが、70年代後半に母が亡くなると、ミラノへ飛び、ジャンニの築いたファッションの世界へ身を投じた。ドナテラは、兄のミューズであり、Versaceというブランドを支える「女性的駆動力」と形容されることが多い。だが、1997年の夏、マイアミの別荘の階段で兄が銃弾に倒れて以来、ドナテラは生まれついての創造性を立証してきた。例えば、1991年〜1995年のアーカイブからVersaceプリントを復活させた2018年春シーズンのプレタポルテ コレクションは、頂点を極めたジャンニへ捧げたオマージュであると同じ程度に、頂点を極めつつあるドナテラの力量を物語っている。

無から生まれたジェリー・ロレンゾの独創性

青春時代にDieselのショップで働いていたFear of Godのジェリー・ロレンゾ(Jerry Lorenzo)は、当時「職場でたったひとりの黒人ティーンエイジャー」だった。独学した知識は断片的であり、Gap、Diesel、Dolce & Gabbanaのショップで過ごした経験の継ぎ合わせだった。だが、かつてヨルグ・コッホ(Joerg Koch)に語ったように、そんな経歴は決して不利ではなく、「クリエイティビティの純粋な形というのは、何も持たないことから来るんだと思う」とロレンゾは言う。
「自分がイタリアに行って靴を作れるなんて考えもしなかった。200ドルのDieselのジーンズを売っていた時、まさかDieselと工場を共有する日が来るなんて、思いもしなかった」。だから、ファッションではなく、経営学の修士号を取得した。その後、父がメジャー リーグのマネジャーだった関係で、いわば野球が家業だったから、一時期ドジャーズで仕事をした。そしてただ、ファッション業界の内外にかかわらず、共感を得るはずだとなぜか確信した服を作り始めた。「僕はファッション スクールの名前をふたつ挙げることすらできないよ。CFDAが何の略語かもわからない」

少年のように、川久保 玲のように

私たちの世代でもっとも斬新なアバンギャルド デザイナーという絶大なる称賛を考えるとき、Comme des Garçonsの川久保が正式にファッションの教育を受けたことがない事実は、アマチュアリズムにとって大きな得点だ。60年代に慶應大学に入学したが、今でこそ日本を代表するデザイナーが専攻したのは文学だった。企業の宣伝部で働き、その後フリーランスのスタイリストとなって、自分のイメージが求めるアシンメトリなシルエットの服を作るようになった。1982年に発表した「バッグ レディ」スタイルは、いかにも川久保らしく究極まで推し進めた元祖ノームコアだ。川久保は伝統的なファッションの教育を受けなかったかもしれないが、デムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)、J.W.アンダーソン(J.W.Anderson)、ジャックムス(Jacquemus)など、現在の創意溢れるデザイナーたちがそれぞれにComme des Garçonsを学んだことは疑う余地がない。

Julia Cooperはトロント在住のライターである

  • 文: Julia Cooper